北海道おおすめ廃墟ツーリングスポット【羽幌炭鉱】心霊ツアー!?廃墟の王国
北海道の忘れてはならない歴史の一つが、炭砿の歴史。エネルギー革命によって、石炭の歴史は幕を閉じるわけですが、廃墟となった今でも、たくさんの人々の足跡が今も感じられる。当時の人々の息遣いを感じながら、1935年操業開始の羽幌炭鉱を訪ねた。廃墟好きにはたまらない物件の数々。炭坑住宅、病院、そして竪坑、斜坑 廃線跡。
早速ご紹介します!!
廃墟を取り巻くすべてがここにはあります。
@itariaaaaa 羽幌炭鉱 北海道
♬ Guitar instrument pop - Margarita
当時の生活を感を偲ぶものは心ない人によって持ち去られてますが、建物群だけでも一見の価値があります。山奥なのでヒグマにご注意。
羽幌炭鉱アクセス
- 旭川市から約161km 約2時間30分
- 札幌からは約225km 約3時間15分
- 千歳からは約259km 約3時間40分
魅惑の【羽幌炭鉱】へ
羽幌炭砿とは、かつて石炭王国と言われた北海道は、夕張や三笠、釧路など、石炭の街は数えきれないほどあった炭鉱のひとつです。
しかしながら、エネルギーの主役が石油から石油へと移り変わってゆくとともに、石炭の街は過疎化が進み、その足跡さえも消え去ってゆく。あたかも元から誰もいなかったかのようです。
築別貯炭場(ホッパー)
羽幌町の中心部から23キロ付近の山中に拓かれた「羽幌炭砿」は、1940(昭和15)年に本格的な操業を開始したとあって、当時の遺構が様々な形で残されていました。
それらはほんのわずかですが、かつて1万人を超える労働者が働いていました。
羽幌町の石炭の調査は、1888(明治21)年にはすでに行われていたが、山深い場所であり、運搬不可能ということで長い間手付かずのままだとか。
本格的な操業にあたって、1940(昭和16)年には16.6キロメートルの羽幌炭砿が敷設された。
戦時下での敷設のため、鋼材が不足し、全国から様々な寄せ集めて建設しました。
現在残っているここも、不揃いのまま放置。(羽幌炭砿は1970(昭和45)年廃止)
羽幌炭砿鉄道病院
羽幌炭砿鉄道病院に、藪を切り払って突入!!
ここは1944(昭和19)年に病院開業。
1956(昭和31)年には内科、外科、産婦人科、耳鼻科があり、病室14室、ベット数50、医師5名に看護師も含め38名だったという。1971(昭和46)年に閉院。
炭砿アパート郡(69R−1)
1969(昭和44)年8月に2棟48戸・さらに9月に2棟48戸が完成。近代的4階建て鉄筋コンクリートで水洗トイレ、グリーンとブルーの屋根、クリーム色の壁という当時としては洒落たデザインの建築。現在は3棟が残されている。
アパートの壁に「69R–1」とあるのは、建てられた1969年を表している。炭砿の閉山1年前にアパートが建てられたというのも、なんだか悲しい。
スマホの電波もありません。圏外で不気味です。熊が出そう。
このアパートに実際に住んでた、旅人の家族の話です。羽幌炭鉱の閉山の年に彼は生まれたらしく、彼も生まれ育っていたかもしれない場所を見ておきたくて、4年前に両親と行ってきたと。
住んでた部屋は4階でまだ形は残っていますが、このコンクリートと制の建物もいつかは姿を消してしまうんでしょうね。
彼の父は坑内での仕事ではなく、実業団(スキー)をやりながら街を広げる建築関係の仕事をしていたため、なおのこと閉山から50年で街が自然に戻ってしまった様子には、炭鉱マンとはまたちょっと違う考え深い物があるようです。
アパートの完成(1969年)から約1年ほどしかこのアパートは使わませんでしたので、よく心霊スポットとして紹介されますが、そんな心霊スポットになるような事件はなかったそうです。
あるとしたらアパート群へ向かう途中に昔はあったと、彼が父から聞いた建物の〇〇〇でしょうと。何だろうそれは、、、
とにかく建物にとても威圧感があって、熊が出てくるのではないかと、常に不安になります。
あとは、虫が多すぎてアブやハチ(1センチ以上の大きいもの)窓を開けないか、入る時はしっかりと虫が入っていないか確認が必要です。
炭鉱が繁栄して頃の集合住宅と聞いています。草木に埋もれた廃墟感が物哀しさを感じさせますね。
近くには、火力発電所の跡の煙突、石炭を鉄道の貨車に積み込む施設と思われる遺構もあります。
とにかく廃墟だらけです。
@itariaaaaa 羽幌炭鉱第2選炭工場貯炭場
♬ Forest morning orchestra and piano - Sino
羽幌炭鉱第2選炭工場貯炭場
運搬立坑は羽幌本坑における深く複雑化した石炭運搬面の打開と生産の増強、入排気の改善など複合的な目的のために掘削された立坑。
垂直に掘削された坑道で、巻上げ塔はトロッコや作業員などを運ぶエレベーターのような昇降機を収めた建物です。
国鉄名羽線の開通を目前に控え、羽幌鉱業所(羽幌本坑と上羽幌坑を管轄)を中心とする昭和35(1960)年からの合理化5カ年計画が策定され、その一環として昭和36(1961)年6月、総工費17億円を投じ着工。
これに先立ち昭和39(1964)年11月、立坑側と第二斜坑側を結ぶ八片連絡坑道6,500㍍が貫通した。
この坑道の目的は運搬立坑同様、通気の確保、ガス抜き、さらには羽幌本坑の運搬系統の複雑化の解消にあった。
地質の悪さは想像以上で一進一退の難工事であったが、予定より1週間遅れで完成。
これにより、斜坑は資材搬入、立坑は運搬・入気、第二斜坑は排気という羽幌本坑の基本構造が確立され、深部採炭の基盤が完成する。
地下512㍍から石炭満載のトロッコが約1分で上がって来る。巻上げ機をフル運転すると、1時間に炭車80車両、約1,000㌧の石炭が揚炭できた。
また人員は1回に50人が昇降でき、それまで本斜坑まで達するのに1時間を要していたのが約30分に短縮された。
昭和45(1970)年11月の閉山までわずか数年を残すのみであったが、運搬立坑は羽幌本坑の心臓部として稼働し、羽幌炭砿のシンボル的存在となった。
現在も巻上げ塔の偉容は、訪れる人々を圧倒せずにはおかないとか。
虻が出てくるので気をつけて散策しましょう。
竪坑までの道は夏でも草木が少なく、とても歩きやすい。
昔の炭鉱関係の施設が所々にあり、廃墟好きにはいい場所です。雨の降った翌日とかだと長靴必須です。
素晴らしい。先ほどの旅人のお母さんが昭和40年頃に羽幌炭坑で事務しながら実業団のバレーをしてましたらしい。
素晴らしい。巨大な立坑に圧倒される。
階段が腐ってるから登らない方がいいです。
グーグルマップでは確認できなかったシックナー跡が見つかりました。
北辰中学校跡方向へ400m程の炭鉱住宅群跡、旭ヶ丘小学校跡付近の炭鉱住宅群跡も見所です。
北海道の炭鉱遺産をなぜ撮影するのか?名古屋出身の日本一周ライダーで、炭鉱や石炭とは縁のない生活を送っていた僕ですが、旅の最中に出会った炭鉱遺産の姿によって人生を大きく変えることとなった。
各地の北海道炭鉱遺産を撮影していく中で、いわゆる廃墟的な寂しさではなく、人の手を離れた産業構造物が自然に還る、融合していく姿の美しさを表現したいと思うようになった。
炭鉱住宅や煙突など、見たことのない豊かな景色を撮影することができて、大満足の羽幌本坑でした!!
そのまま高架下で野宿を決め込んだのは内緒。
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廃墟ツアー北海道【羽幌炭鉱】廃墟の王国
廃墟ツアー北海道【羽幌炭鉱】廃墟の王国