網走刑務所おすすめツーリングスポット♪【昭和の脱獄王伝説】ゴールデンカムイ
網走監獄(網走刑務所)は、高倉健の映画『網走番外地』で知られ、"恐怖の刑務所"というイメージがある方もいるでしょう。そして、ここは誰が作ったのか?どんな罪人が?どんな刑務所だったのか?さっそく網走監獄についてご紹介していきましょう!
網走アクセス
料金、駐車場、営業時間
無料駐車場が敷地内に400台あります。
大人1,500円 高校生 1,000円 小中750円
- 営業時間:9時〜17時まで(最終入場は16時30分)休館日は12/31と1/1のみ
電子割引券
この画面提示していただくと10%割引となります。※1枚で1グループ有効
現代人から見ると、当時は背筋も凍るような記録も残されていて、昨今の歴史ファンであればマンガ『ゴールデンカムイ』でその様子を垣間見たかもしれません。
【網走監獄】
現在、網走監獄と聞いてざわつくのは『ゴールデンカムイ』のファンでしょう。前述の通り、かつては映画『網走番外地』シリーズが定番でした。
始まりは明治23年(1890年)
まず、ここは何の目的で作られたのか?どんな罪人が居たのか?知名度の割に、意外と中身は知られていないようにも感じます。
分かりやすく、ゴールデンカムイの登場人物で見てみましょう。
札幌と旭川を結ぶ道路脇には…おびただしい死体が埋まっている。ヒグマと狼に怯えながら寒さと飢えに苦しみ死んでいった、網走の囚人たちだ」
鈴川聖弘
「網走の囚人はもとより悪徒であるから、懲罰として苦役させれば、工事が安く上がり、斃れ死んでも監獄費の節約になる」
土方歳三
「樺戸集監に収容されたのは戊辰戦争や西南戦争で負けた国事犯と呼ばれる武士たちだ。勝てば官軍 負ければ賊軍 戦争というのは負けてはいかんのだ」
※『ゴールデンカムイ』10巻収録 第97話
命を命とも思われない――虫けらのように扱われる過酷な言葉がずらりと並び、ただごとではない雰囲気を感じられるでしょう。
ときは明治維新まで遡る。
網走監獄の歴史を振り返ってみましょう。
現在、網走監獄と聞いてざわつくのは『ゴールデンカムイ』のファンでしょう。
江戸時代のように、凶悪犯をその都度、斬首しているようでは、西洋諸国から非文明的とみなされてしまいます。
明治12年(1879年)
ある年の斬首を最後にして、この制度は終焉を迎えました。
こうなると政府としては、あり余る犯罪者をどこかに集めなくてはなりません。じゃあ、どうするすべきか?
実は新政府の成立以降、候補地は決まりきった話でした。戊辰戦争で敗れた佐幕藩の士族を、屯田兵と称して北海道開拓に送り出していたのですから。
屯田兵や開拓に挑む人々の境遇は、若干改善されてはいたものの、初期は過酷そのもの。彼らのほとんどは、戊辰戦争の敗者や災害で土地を失った者でした。
そう、持たざるものの新天地が北海道であったのです。しかし寒冷の地を開拓することは、危険でハイリスクであります。
しかし、明治政府は理解しておりました。家族連れの刑務官さえ引き連れたのです。
いっそ、危険で過剰な労働の結果、死んでも仕方がない人員がいればうってつけではないのか――そんな非情極まりない決断の結果、北海道に監獄が置かれるのです。
それが網走監獄(いわゆる網走刑務所)でした。
長期刑か無期懲役が大半
『ゴールデンカムイ』から鈴川の言葉を引用しましょう。
「囚人はもとより悪徒であるから
懲罰として苦役させれば工事が安く上がり
斃れ死んでも監獄費の節約になる」
死んでもいいような囚人を強制労働させよう――そんな狙いですから、当然、刑罰の重い者が収容されることになります。
多くは無期懲役や長期刑の重大犯罪者。
『ゴールデンカムイ』の「刺青人皮」囚人も、連続殺人犯や凶悪犯が多いですね。
連続脱獄に手を焼かれた白石も、網走収監となったわけです。
史実での有名収監者も、大物揃いでした。
「凶悪犯の吹きだまり」
「一度入ったら二度と出られない」
そう呼ばれた網走監獄には、凶悪犯だけではなく思想犯、政治犯も多く収容されております。
ザッと挙げてみましょう。
- 安部譲二
- 伊藤一(『網走番外地』原作者)
- 小山豊太郎(李鴻章狙撃犯)
- 白鳥由栄(白石のモデル)
- 徳田球一(政治運動家)
- 津田三蔵(大津事件犯人)
- 西川寅吉(「五寸釘寅吉」の異名を持つ泥棒)
- 野村秋介(右翼活動家)
- ブランコ・ド・ヴーケリッチ(ゾルゲ事件で逮捕されたスパイ)
- 美能幸三(元暴力団員、『仁義なき戦い』の原作者、作中では広能)
- 宮本顕治(日本共産党の政治家・文芸評論家)
こうした囚人を収監しながら、政府には、あわよくばという考え方もありました。
収監後、彼らが北海道に定住すれば、もう本州にはやって来ませんし、北海道の住人も増えて一石二鳥というわけです。
しかし、これは現地に住む人にとっては、たまったものではありません。白石のモデルとなった白鳥由栄のような脱獄囚の存在もあります。
【脱獄事件】味噌の塩分で鉄を錆びらせ
有名なのでご存知かもしれませんが、日本人の中から二人ほど紹介しましょう。
【伝説の脱獄犯】白鳥由栄
男性です。明治四十年(1907年)に青森県で生まれました。
何が原因だったのか、26歳の時に共犯たちと強盗殺人を起こし、28歳の時に自首して刑務所へ入っています。
が、当時の刑務所は看守の質によって大幅に居心地が変わるところでした。白鳥は運悪くかなりキツい看守に当たってしまったようで、そのために脱獄と投獄を繰り返すようになりました。
そしてついに、当時最も過酷な環境だった網走刑務所に入れられてしまいます。現在も同名の刑務所がありますが、当時の建物は今は「博物館網走監獄」になっています。
ここは明治時代に刑務所が設置された当初から、重罪犯を収監する目的で作られていました。
囚人を使って北海道の開拓を進めるという狙いもあったようです。が、他の地域から連れてこられた囚人たちにとって、北の大地の気候は厳しすぎました。
例えば、網走~北見峠の間約160kmの道路工事に従事させられた囚人のうち、200人が亡くなっています。タコ部屋との違いは屋外か屋内かくらいしかないですね。
一応、明治二十七年(1894年)にそうした使役は廃止されていたのですが、気候は人間の都合では変わりません。極寒の刑務所の中で、白鳥は「何とかしてここから出たい」と強く思うようになったようです。
そして、誰も考えつかなかったような方法で脱獄を果たします。
毎日の食事で出される味噌汁で、手錠と檻の鉄を錆びさせて、拘束を解いたのです。よくそんなコトに気づいたものですね。
その後、第二次世界大戦が終わるまで、どこかに身を潜ていたようです。しかし、終戦後に畑泥棒と間違われ、農家の人と争っているうちに過剰防衛で相手を殺してしまいました。
このため、また捕まって脱獄しています。そろそろ脱獄の二文字がゲシュタルト崩壊しそうですね。
白鳥が脱獄を繰り返した理由は、彼が根っからの極悪人だったからではありませんでした。当時の刑務所は看守の質によって囚人の印象が大幅に変わります。。
そして、白鳥が出会ったのはほとんどがキツイ看守で、いかにも反抗心を煽られることばかりだったのです。
府中刑務所に送られてから、白鳥は脱獄をやめました。担当の警官が貴重品だった煙草をくれたり、府中刑務所の看守が「札付き」のような扱いをしなかったので、真面目に服役する気になったのです。
模範囚になるほどだったそうですから、それまでどれだけ粗雑な扱いを受けていたのか予想もできませんね。何だか一昔前の学園ドラマのような話です。
白鳥は昭和三十六年(1961年)に仮釈放され、その後は建設現場の作業員としてこれまた真面目に働いていました。
亡くなったのは、昭和五十四年(1979年)のこと。無縁仏になるところを、仮釈放されたとき近所に住んでいた人が引き取ってくれたのだとか。殺人犯が更正したといえる数少ない例かもしれません。
殺された叔父の仇討でお縄になった男
最後に、西川寅吉です。
安政元年(1854年)生まれで、最初に罪を犯したのは14歳のときのこと。同情の余地がほんの少しだけあります。
当時、寅吉をかわいがってくれていた叔父さんが、博打に関する揉め事で恨みを買って殺されてしまい、寅吉は仇討ちをしたのです。肝心の仇は逃してしまいました。
腹いせか、それともとどめを刺すためだったのか、仇の家に放火もしています。当時の世情で仇討ちはむしろ「義侠心に厚いヤツ」という見方をする人もたくさんいました。
寅吉が入った地元・三重の牢獄でも、他の囚人たちにそう見られていたようです。そのうち、寅吉の仇討ちが失敗したことが話の種になると、囚人たちは寅吉に本懐を遂げさせてやろう、と脱獄を手伝ってやりました。
「不憫な少年に周りの大人が同情し、協力した」という点ではいい話なんですがね……。
五寸釘の痛みに耐えて10kmも逃亡⁉️
「五寸釘寅吉」の異名は、秋田から三重へ逃げている途中、静岡で五寸釘の刺さった板を踏んでしまったことから来ています。
これだけならただのお間抜けですけれども、彼は五寸釘の痛みに耐えて十数キロも逃げたといわれているのです。
そのまま一生のほとんどを犯罪者として過ごすことになった寅吉でしたが、北海道の空知というところに送られてからは、いい看守に出会えたおかげで真面目にやっていたようです。
そして網走刑務所に送られ、71歳のときに高齢のため仮釈放されました。理由が理由ですし、その後故郷の息子に引き取られているので、実質的には普通の釈放だったのでしょうね。
亡くなったのは昭和十六年(1941年)、87歳のときのことでした。
2人とも「そこまでするか」という感じで脱獄していますが、個人的に「生き残って欲しかったなあ」と思うような人に、こういう知識があればなあとも思ってしまいます。
おみやげ屋【ステッカー、Tシャツ】
マリン北海道監獄店
-監獄内にはカフェや売店もあり、休憩やお土産の購入に利用できます。
網走監獄のお土産屋さんで、1つの店舗の中で4つくらいに販売店が別れてます。網走のTシャツ、ステッカーを爆買いしました。
【監獄食が食べれる】監獄食堂
営業は午後2時半まで
監獄に併設された食堂。まだ新しいので綺麗。ここのイチオシは刑務所の食事を再現したセットで2種から選べます。
監獄の横で、監獄食を食べられる「体験型」の食堂です。なるほど、囚人はこんなのを食べてるんだ、と体感出来ます。
味に関しては、懐かしい学校給食の雰囲気です。記念にぜひどうぞ!
「囚人道路」開削で亡くなった人々
広大な北海道を開拓するためにも、道路の開通は必須――政府は、そう思い始めました。使える人員は、過剰労働で死んでもよいと。
明治23年(1890年)3月、北海道庁は網走から石狩・北見へ通る中央道路の建設に着手。労働に従事させる囚人を収容するため、囚徒外役所を作ります。
それが網走監獄の始まりでした。
この道路は一年間で160キロにわたり建設し、犠牲も出ました。足に逃亡防止の足かせをつけたまま働く中、死者は実に200名以上。怪我人や、栄養失調に陥る者も多数出ております。
網走周辺の観光地
網走駅
この縦書きには、出所してくる受刑者が網走を去る際、「この縦書き看板のように、横道に逸れることなく、まっすぐに歩んで生きて行って欲しい。」という願いが込められている。
網走刑務所と博物館網走監獄の最寄り駅で、前者の網走刑務所は現役の刑務所であり、かつての名称は網走監獄であった。
後者の博物館網走監獄は観光地として建設されたもので、網走刑務所の旧建造物を移築し、保存公開している野外博物館である。
ちなみに、日本の鉄道駅をアルファベット順に並べると網走駅は一番最初(ABASHIRI)に来る駅である。
札幌、旭川からの特急の終着駅であり、オホーツク観光の陸の玄関口となるJR網走駅。
駅前より天都山などの観光地や女満別空港へのバス、期間限定で知床方面へのバスも発着します。
網走湖【無料キャンプ場も】
呼人浦キャンプ場
・無料のキャンプ場。ゴミは持ち帰り
・トイレ、水場、芝生もしっかりしてる
・最寄りの日帰り温泉はホテル網走湖荘700円
・もっと近い網走観光ホテルは日帰入浴不可
車は場内の舗装された部分のみ駐車可。ちなみにバイクで中に入る際は、入り口の車止めの脇をすり抜けて皆入ってます。
・側に国道、電車ですが、そんな気にならない
・真夏の日中30度越えとはいえ、やはりそこは道東。明け方前ぐらいは冷るので寝袋必須。
虫は気にならなかった。でも、網走湖自体がキレイな水なので、たぶんブヨ等が出ると思う。いずれにせよ、無料でこのクオリティ。北海道民はふところデカい!
@itariaaaaa
♬ Fun summer - Kirill Kharchenko
流氷硝子館
オリジナルのガラス器が沢山有ります。とくに流氷を表した流氷グラス。これを使えば何時でも網走の流氷を思い出せそう。個性がありましたね。
網走港帽子岩ケーソンドック
大正12年に作られた日本最古であり現役のケーソンドックです。島には、旧日本軍戦跡「帽子岩トーチカ」なども!
潮が浅い時は下まで降りれて回ることができるようです。帽子岩の横に腰を下ろして、ボーッとする時間も良いものです。
以上、網走でした!
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網走刑務所【昭和の脱獄王伝説からゴールデンカムイの因果関係まで解説!】